日本緑茶発祥の地

更新日:2022年03月28日

日本緑茶発祥の地 宇治田原

 宇治田原町は、永谷宗円が青製煎茶製法を広めたことにより、「日本緑茶発祥の地」といわれています。中国からもたらされたお茶がどのように日本に定着し、発展していったのでしょうか。

黒い烏帽子をかぶり白い装束を身につけた永谷宗円の肖像画

永谷宗円(妙楽寺蔵)

樹木に囲まれた石垣の上に建つ永谷宗円生家の写真

永谷宗円生家

木枠で囲まれたほいろ跡の写真

永谷宗円生家ほいろ跡

お茶のはじまり

 お茶の木はツバキやサザンカと同じツバキ科ツバキ(カメリア)属のカメリア・シネンシスという常緑樹です。原産地は中国南部地域と考えられ、日本と同じ「照葉樹林文化圏」のアジア各地で利用されてきたようです。チャはカフェインを含む有用植物として見いだされ、コーヒーやカカオなどとともに、世界的に重要な嗜好飲料の原料となっています。チャは最初発酵させるなどして食用にし(碁石茶などの後発酵茶はその名残ともいわれる)、やがて飲料になったと思われます。チャの利用は南部の少数民族と接触した漢民族によって取り入れられ、中国で広く普及するようになります。

日本への渡来

 日本にいつお茶がもたらされたのか定かではありませんが、遣唐使などによる大陸との交流で、当初は製品として、やがて実や苗がもたらされたと考えられます。平安時代の文献には茶を点てたことが記載されており(「日本後紀」)、宋に渡り修行した栄西が帰国後「喫茶養生記」を記して喫茶の習慣を奨励します。当初は主に寺院等で健康・薬用飲料とされたお茶は嗜好品となり、各地で栽培されるようになります。文化的にも洗練される一方で、景品をかけてお茶の種類を飲み当てる「闘茶」に熱中したり、庶民の間でも日常的な飲料として浸透していきます。

宇治田原での栽培

 拇尾の明恵は親好のあった栄西から贈られた茶により茶園を造り、さらに宇治など各地に植栽したと伝えられます。伝承によれば、奧山田茶屋村にある寄代坊の光賢が、拇尾のお茶の実を、明恵の弟子の光音から譲り受け、大福谷のあたりに畠を拓いて植え、さらに湯屋谷の湯原寺の賢永がこれを田原郷に移したとされています。大福谷は地味・気候ともにお茶の栽培に最適で、お茶の味も優れていたので、大福の穂先茶は宮中や鎌倉将軍へも献じられ「もっとも茶香深し」と賞賛されるほどだったそうです。

遠くまで広がる広大な茶園の写真

大福谷の茶園

鮮やかな緑色のお茶の新芽の写真

お茶の新芽

製茶法の変化

 チャの葉には酸化酵素が含まれており、つみ取られた葉は放置しておくとその働きで変色・変質していきます。つみ取った葉を加熱し、酵素の働きをどれほど押さえるかで「発酵茶(紅茶)」、「半発酵茶(ウーロン茶など)」、「不発酵茶(緑茶)」になり、緑茶は酵素を働かせずに作られます。加熱の方法も、蒸したり湯がいたり、釜で炒るなど様々な方法が用いられます。中国では当初は蒸して加熱した葉を「ほいろ(現在のものとは構造のちがうもの)」で乾燥して仕上げたもので、茶葉を塊にした「餅茶」を必要に応じて削り取って煎じて飲んだようです。
 日本においてもつみ取った葉を蒸したりゆでたりして加熱し、「ほいろ」で乾燥させて仕上げ、葉を煮出す「煎じ茶」や臼ですりつぶした「ひき茶(抹茶の原形)」にして飲んでいたようです。戦国時代には茶園に覆いをかける「覆下茶園」が宇治ではじめられ、そこで生産される茶葉を原料とする「抹茶」が高級な嗜好品としての茶の代表として流行します。その一方で一般的には、露地茶園で作られた茶葉を使った煎じ茶やひき茶、古葉を使った番茶など、多様なお茶が作られ、飲まれていました。
 当初は加熱した茶葉を「ほいろ」や日光で乾燥させるだけだったお茶づくりも、17世紀には乾燥させる前に茶葉を「揉む」という工程が行われるようになっていたことが文献に記載され、品質も向上していったようです。

緑色の法被を着た2人の男性が茶葉を手もみしている写真

手もみ製法

「永谷式(宇治製)煎茶製法」の普及

 宇治田原湯屋谷の篤農家、永谷宗七郎義弘(宗円)は当時の製茶法に改良を加えながら研究し、それまでよりも香りも味も圧倒的に優れた煎茶をつくり出したといわれています。
 隠元が開いた黄檗山は大陸の新たな文化とともに、当時の明で流行していた茶のスタイルを持ち込みました。それに触発された文人墨客の間では煎茶が流行するようになり、嗜好品としての茶の商品の中で煎茶の需要が高まっていったと考えられます。そうした中、宗円は自ら茶を携えて江戸へ向かい、日本橋の茶商山本嘉兵衛を通じて売り出した煎茶は、その高品質なことで評判となり、以後山本家の屋号「山本山」の名を広く知らしめたといいます。やがて全国に広がっていった「永谷式(宇治製)煎茶製法」は、現在の日本緑茶(煎茶・玉露)の製法につながるもので、時は元文3年(1738年)、宗円58歳のときだったといいます。以降、飲むときに茶葉を煮出す「煎じ茶」ではなく、茶葉を急須に入れてお湯を注ぎ、手軽に出せる新しい煎茶(「だし茶」ともいわれる)が普及していきます。
 明治になって現在のような構造のほいろが使われるようになり、発展した手もみ技法には様々な流派が生まれるようになりました。幕末の開国後は西洋諸国との貿易が盛んになり、お茶は生糸に次ぐ主要な輸出品となりました。近代的設備が整い、機械による製茶が盛んな現代も、宗円の意志を継いだ人々によって、高品質なお茶が作り続けられています。

石垣の上に建てられた茶宗明神社境内にある永谷園創業者顕彰碑の写真

永谷園創業者顕彰碑
(茶宗明神社境内)

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