信西入道塚

信西入道塚(しんぜいにゅうどうづか)
(町指定文化財(史跡))

 立川の大道寺地区、大道(おおみち)神社の向かいにある信西入道塚は、源平の争乱によって死んだ信西入道=藤原通憲の受難を今に伝えるものです。通憲は、歴史書「本朝世紀」、法律書「法曹類林」などを著した学者でもあり、鳥羽法皇に認められて少納言まで昇りましたが、その後出家して、名を信西に改めました。また、彼の妻である朝子が後白河天皇の乳母であったことから、天皇の信任が厚く、その博学を請われて僧侶でありながら、政務にもあたりました。
 信西は源氏の勢力を抑えるため、平氏と手を結び、それによって、平清盛は権勢を伸ばしましたが、源氏側はこれに強く反発し、ついに源義朝は内裏を占領し、平治の乱を起こしました。平治元年(1159年)12月4日、信西の武力的後援者であった清盛は、一族を引き連れ熊野詣でに出発しましたが、この機をねらって、義朝率いる源氏の軍勢が、白河院の御所を包囲し、信西とその一族を殺害しようと企てました。計画は12月9日夜半に決行され、危険を察した信西は、大和へ逃げると見せかけ、田原へ向かい、所領の大道寺に逃れましたが、これ以上追手から逃れることは無理と判断し、この地で自害して果てました。また一説では、田原を越えて朝宮に逃れたところで捕まり殺害されたともいわれます。はねられた信西の首は領民がひきとり、塚を作って供養したのだといわれています。
 これにより、保元、平治の乱によって貴族内の抗争は武士の力無くしては解決できないことが明らかになり、やがて鎌倉に武家政権が誕生することで、平安時代は終焉を迎えることになりました。
 塚は古くから絵図に描かれるほど有名な名所で、大道神社裏参道横のため池は「信西の首洗い池」と呼ばれています。なお、現在の塚に建てられている塔は、荒廃していたものを大正5年8月に地元の有志が建て直したものです。
 秋には大道神社参道とともに、紅葉の隠れた名所となっています。

住所 宇治田原町大字立川小字宮ノ前
 

交通アクセス
公共交通 近鉄「新田辺」、JR奈良線「宇治」、京阪「宇治」から京阪宇治バスで「維中前行き」「緑苑坂行き」「工業団地行き」に乗車、「維中前」又は「岩山」下車、徒歩約20分