宇治田原歴史の道
 蕪村の宇治行〜田原の隠れ里
 蕪村の宇治行(ぶそんのうじこう)
 68歳の蕪村は、天明3(1783)年9月13日、宇治田原在住の門人・毛条の招きで家族や社中を伴って宇治田原を訪れ、宇治山で松茸狩りを楽しみました。帰京後蕪村は毛条あての礼状とともにそのときのようすを描いた「宇治行」を送っています。蕪村はこのときのことがよほど楽しかったと見え、「宇治行」を刷り物にして配布しています。

 山でみんなが先を争って登っていく中で蕪村は出遅れたものの、落ち着いて探していると菅の小傘ほどの松茸5本を見つけました。このとき大納言隆国の 「宇治拾遺物語」に平茸の話が出てくることにちなみ詠んだ句が
 君見よや拾遺の茸の露五本
 山の頂上に人家があり、汲み鮎を生業としている人々が住む高ノ尾村(現高尾地区)があることを知って驚き詠んだのが
 鮎落ちていよいよ高き尾上かな
 高尾の下の谷間を流れる田原川に特に流れの激しく水しぶきが米のように舞うことから「米かし」と呼ばれる場所があり、山谷に声が響くのを白居易が琵琶の妙音を比喩した絶唱を思い出して
 きぬを裂く琵琶の流れや秋の声

 以上が世に知られた「宇治行」に掲載された句ですが、宇治田原に遺された蕪村直筆の「宇治行」は、「君見よや〜」の句が異なっています。
 見のこしの茸のかほりや宇治拾遺
 この蕪村の真蹟から、大正15年、当時の妙楽寺住職の好川海堂が句碑を建立しました。
 宇治田原に来訪した蕪村は、その年の12月にその生涯を閉じました。
 蕪村を招いた毛条とは「田原の大名」とも呼ばれた豪農奥田家の九代目治兵衛重義で、蕪村の門人として、宇治田原で同好の集まり「社中」の中心人物として活動していました。また、十代目治作は、「宇治道」の改修で知られています。
 
 施基皇子(田原天皇)について